イサクは主の祝福

イサクは主の祝福を受ける存在でありました。そして、彼は土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫がありました。井戸も掘り当てるようになるのです。しかし、そこでイサクが直面した敵対者がいました。それが誰でしょうか?ペリシテ人です。

 

創世 26:15 ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。26:16 アビメレクはイサクに言った。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」 26:17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだ。創世 26:18 そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。

 

彼らは、イサクの父であるアブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとく塞いだ。とあるのです。しかし、イサクは勇敢にもそれらの井戸を掘りなおしたとあるのです。ここで、井戸とは何か?考えて見ましょう。

井戸は命の源である水を汲む場所であります。私達は水を飲まなければ生きていくことができません。霊的にも同じことが言えます。私達にとっての命の水は神様の御言葉であります。

ヨハネ4:14しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命にいたる水が湧き出る。

全ての場所に水道

今は日本は全ての場所に水道が行き届いています。だからどこでも水を飲むことができます。しかし、昔は井戸を掘らなければ水を飲むことは出来ませんでした。そのような中で、今日の本文を取り上げました。それは『井戸』についてです。皆さんは実家に井戸がありますでしょうか?私の実家は田舎ですので、井戸があります。勿論現在は水道が通るので井戸はふさがれています。今日の本文は井戸をめぐって話が進められていきます。井戸は、その当時中近東の地方ではまさに『命綱』でありました。なぜなら、中近東は、乾燥地域であります。昼は40度近くまで、夜は氷点下まで冷え込むような寒暖の激しい場所だからであります。そのような状況では飲み水を確保することが自分の命を保つ為に重要なことでありました。そして、井戸を掘り当てることは、偉大なことでありました。だからこそ、井戸と水をめぐっての様々な争いが起こるのであります。

3日後に復活

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。”

そして、キリストは十字架で死んで終わることなく、3日後に復活したのです。信じるものに永遠の命を約束しているのです。

キリストは、“わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。”と言われました。イエス・キリストは唯一の救いの道です。

このイエス・キリストを私達は罪からの救い主、主として受け入れなければなりません。

イエスは言っています。

“見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。”

イエス・キリストはあなたの心の扉を叩いています。どうか、心を開き、イエス・キリストを皆さんの心に受け入れてください。キリストを心に受け入れるならば、キリストがあなたの心の中に入ってこられ、あなたの罪が赦され、永遠の命が与えられます。あなたは神の子供になり、大いなる冒険の人生が始まります。

“主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。”

電車伝道メッセージ

電車伝道メッセージ

皆さん、こんにちは。皆さんは世界のベストセラーである聖書を読んだことがありますか?聖書は神様の愛について書かれてある本です。

神様は皆さんを愛しておられ、皆さんに素晴らしい人生を与えようとしておられます。

イエス・キリストは言われました。

“神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。”

神様は皆さんを愛しておられます。そして、皆さんに豊かな人生を与えようとしています。

それなのに、なぜ人々はこの豊かな人生を自分のものにしていないのでしょうか?今日本では沢山の人が心の病、自殺やいじめなどの問題に苦しんでいます。それは、人は罪を犯して、神から離れてしまったからです。皆さんは自分には罪があると思いますか?

“すべての人は、罪を犯した”と聖書は言っています。聖書で言う罪とは、自分勝手に生きる自己中心の心の事を言うんです。人間には罪があるので、神様を信じる事も知ることもできないんのです。

しかし、イエス・キリストが、2千年前にこの世に生まれて、人の罪を解決しました。あなたも、イエス・キリストによって、神の愛を知ることができます。

2千年前に、キリストは、私達の罪の身代わりに十字架で死なれたのです。聖書は言っています。

クリスチャン文化

私は以前、ミッション系のある施設で働いていました。その時に、ノンクリスチャンの友人から聞いた話を今でも印象深く覚えています。

その友人は、クリスチャンではありませんでした。今も信じるつもりはないと。でも、そのかたくなな心が、一度揺れたことがあったと。それは、尊敬するクリスチャンの恩師の葬式に参列した時だったそうです。今まで参列した葬式はすべて仏式で、どこか陰鬱で、通夜は酒のにおいがして、できれば行きたくない場所でした。しかし、クリスチャンのお葬式は、天国へ送り出すという喜びに満ちた雰囲気でした。それを見て、彼女は考えたそうです。クリスチャンはこういう風に死をとらえられるのか、私もこうして死を迎えたい、と。

お葬式は最期の伝道の機会と言われますね。考えてみれば、人はいつ命が尽きるかわからない存在です。今、命があり元気なうちに勧めを受け入れてください、早く信じてください。

聖書

聖書は神の言葉です。聖書のどこを見ても、作者名は見つかりません。時代も身分もさまざまの人が、聖霊によって筆をとり、救い主イエスキリストについて焦点を当てて書いたのが新旧約聖書66巻の巻物です。

言葉には力があります。人の言葉でさえ、大きな影響力を及ぼします。大して有名な人でないとしても、ある人物の一言が、どれくらい一人の人を動かすでしょう。あの一言で傷つき、生涯忘れられない恨みとなった。あの一言で、嬉しくて嬉しくて仕方ない。あの一言が、苦しいときの支えとなった。言葉は、大きな影響力があります。

人の言葉でさえこれだけ力があるのですから、それが神の言葉であればどれだけの力があるでしょう。一人の命を救い、力強く立たしめる神の言葉、それが聖書のみことばです。

「聖書はすべて神の霊の導きのもとに書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのようなよい業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(テモテへの手紙第二 3:16-17)

クリスチャン文化

洗礼をうける前に抱く迷いや悩みは人それぞれですが、「墓」について考える人も多いようです。本格的に教会に所属するとしたら、先祖代々の墓参りができなくなるのではないか?特に、寺に墓がある場合、寺に出入りするのは禁じられるのかと考える方が多いようです。幸いうちはもともと寺に墓があったのですが、僧侶とのもめごとがあり「霊園」に墓を脱出させたそうで、前述のような葛藤はなかったのですが、そのように悩む方の気持ちはわかります。

私は聖書に照らしてこう考えます。墓も先祖代々の土地であるのだから、においがプンプンして草ぼうぼうの荒れ放題にしてはいけない、年に1回2回でも掃除して、よく管理するべきです。しかし、墓石には命はありません。そこに埋まっている骨壺にも、先祖の霊はとどまっていません。墓の前で拝んではいけない、偶像崇拝にほかなりません。よって、墓参りではなく「墓掃除」を勧めます。

大隈重信(1838-1922)

言わずと知れた、早稲田大学の創立者です。彼が教会に所属したり洗礼を受けたという記録がないので、クリスチャンとは明言できません。しかし、聖書と深いかかわりがあることを紹介したいと思います。

大隈重信は佐賀藩士の家庭に生まれ、佐賀藩の武士として幕末の志士の生活を送っていました。当時は、幕末の時代。今までの日本本来の考えと、国外からの影響とがぶつかり、日本が揺れ動いた躍動の時代でした。重信もその中に生きながら、佐賀藩の儒教教育に反発したり、日本の新しい方向性を追い求める若者でした。27歳の時に佐賀藩の英学塾で、宣教師フルベッキから、英語を学びました。その中で、聖書を教わり、アメリカ独立宣言など欧米の政治を知り、大きな影響を受けたそうです。重信31歳の時、転機は訪れました。浦上信徒弾圧事件の後、イギリス公使から「日本の行っている事は野蛮国のすること、今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ」との抗議がありました。困った明治政府は、「英語が話せてキリスト教の知識があるもの」を探しました。そこで、白羽の矢が立ったのが、大隈重信でした。それまでは地方の一武士に過ぎなかったのですが、ここから、彼の人生は大きく広がりました。そして、最終的には総理大臣まで上り詰める政治人生を歩みます。

ヨハン早稲田キリスト教会にクリスチャン伝はまとまっています。

クリスチャン紹介

フランクリン D. ルーズベルト(1882-1945)

1933年から1945年までの12年間、アメリカ大統領を歴任しました。アメリカでもっとも愛された大統領、と言われています。裕福な家庭で育ち、ハーバード大学を卒業、コロンビア大学のロースクールを卒業後、ニューヨークで弁護士事務所を開業。その後、弱冠28歳で政界入りを果たしました。華々しい政治の世界での活躍を見せたその時代、彼の写真を見ると、私の目には、いかにも自信満々でちょいワル風、傲慢な表情がうかがえました。しかしその後、人生の転機ともいえる不幸が彼を襲います。39歳の夏、突然ポリオ(小児麻痺)に倒れ、下半身不随になります。両足が不自由な彼と共に歩み、信仰で彼を支え、彼の両足となったのが妻エレノアでした。「およそ鍛練というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。(ヘブライ人への手紙12:11)」

46歳に彼はニューヨーク州知事に当選、世界大恐慌に対する政策を次々と成功させました。この時代の彼の写真を見ると、温和で柔和な笑顔が目立ちます。その後、大統領となり、ニューディール政策を推し進めたのはあまりにも有名な話です。不況で銀行がつぶれそうな中、「銀行にお金を預けてください」と国民に呼びかけました。必死に祈り、その翌日、預金をする人の長蛇の列ができました。その陰には、信仰による祈りがあったことを、ご存知でしたか?

聖書と人間関係

嘘をつくのはよいことでしょうか?それだけを見たら、悪いことだと思います。しかし、時と場合があります。人質として悪者につかまって、口を割ったら多くの仲間が殺されてしまう時、その秘密を「知らない」と嘘つくことは悪いことでしょうか?

「よい」「悪い」は、特に人間関係において迷うことがあります。嘘つくべきか、それとも本当のことを言うべきか。クリスチャンになって、私が迷ったことの中の一つです。その時に、解決となったみことばです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイによる福音書6:33)」神様の栄光になるようにすればよいんだ、と思うのです。

旦那さんに内緒で教会に来ることに良心の呵責を持っている奥さんがいました。自分は来たいけれど、夫にはおそらく反対される。どうしよう。来たらよいことは自分でもわかるんだけど。このみことばに照らして言えば、嘘をつきながらでも教会に来るべきと思います。そうすればもっと信仰が強くなって、示されたときに打ち明けて、夫の理解も得れる、また、夫も信じることができると信じます。